茶聖奇伝


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『茶道の神様・千利休の謎』

安土桃山時代に活躍した千家の開祖 千利休。
この茶道の神様といわれる千利休には、ある謎の伝説があるのを御存知ですか?

千利休は織田信長の天下取り時代から茶道を伝えており、
信長公にもお茶の師として愛され、
信長亡きあと天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に仕えたことでも有名です。

その千利休が、実は本能寺の変で織田信長を討った明智光秀であり、
信長の死には一つの秘密があって、明智光秀はその秘密を背負い、
豊臣秀吉に討たれた事にして、
余生は千利休として豊臣秀吉の知恵袋になったのだというのです。

しかし、その千利休は秀吉との間に確執が生まれ、自ら切腹したというのが定説です。

ですが、その定説にもまた謎があり、実は上杉家の直江兼継に救われて、
比叡山の僧侶、天海となり、徳川家康の天下になってからは、
家康の知恵袋になったというのです。

千利休が明智光秀だったという説については一つの証言があり、
戦前に活躍した世界的な宗教家である出口王仁三郎という神人が、
その霊覚によって千利休の秘密について、弟子の一人に話したところ、

その弟子が実は千家の継嗣と知り合いで、師がその話をしたところ、
それは後継ぎにだけ知らされる一子相伝であって、
決して外には漏らさないことなのに、どうしてわかったのかと不思議がったとか…。


『お茶の先生のお話』

日本人はお茶が好きですね。私も大好きです。お茶を飲むとホッとします。

私は、お寿司を頂く時には渋いお茶を、いくらでもおかわり出来る準備がないと、
とても不満です。夏場はよく冷えた渋いお茶でもお寿司にはよく合います。
暑気がして食欲がない時など、お茶漬けサラサラをやると、さっぱりとお腹を満たせて
助かりますよね。最近は、抹茶の粉末を小さじ半分ほど、
水か、ぬるま湯で溶いて飲むのが好きです。

ある日、知人から紹介されたライブバーに、ある人のワンマンショーを観に行きました。
千家系列の後継ぎの方と出会い、
帰りに自宅近くまでクルマで送って頂ける事になりました。

私も、個人的にお茶についてはいろいろと調べており、この機に知ったかぶって、
いろいろと話してみたいこともありました。出会ったばかりの茶道の先生です。
お茶の道にいない者が、あれこれ話すのもはしたないと思い、
送ってもらう車内で、質問形式で雑談をしてみる事にしました。

そこで聞いた話を少し書きます。

さて、千家の開祖ともいえる千利休は「黒」を尊んだという話が出て、
その辺から戦国時代の話題が少しかぶって来たのですが、
黒といえば織田信長が愛した色でもあります。

当時、茶道は武将のたしなみの一つでもありましたが、茶道に於ける茶室は、
狭いので帯刀したままでは入れません。
そこでライバル関係にある武将達がお茶を楽しみながら、
腹を探り合うわけですね。

そんな緊張感のある茶室の中では、場合によっては茶器を武器として使う事もできるし、
武将同士がお茶を立て合う場面で、毒を盛る事も可能だ、という話も出ました。

一見、優雅な貴族のたしなみのように見える茶道は、決して武道と縁遠いものではないのだ…。
そのような濃い話が車中で続くのでした。

私は、やはりこの方は茶道の先生だけはある、と感服したのでした。


『龍馬と千利休の不思議な関係』

坂本龍馬は、土佐藩の郷士の出て、藩では下士として、
上士達から激しい差別を受ける側の身分でした。
しかし実家が豪商であったので、上士達に金を工面してやっていた恩がありました。
龍馬は身分に反比例して、お坊ちゃま的に育ったそうです。

明治維新前夜、幕末の維新の英雄として後世、語り継がれる事になった坂本龍馬。
彼は実は「自分は明智光秀の末裔である」ということを生前、よく語っていたそうです。

龍馬自信がよく話したという光秀には、ある伝説があります。
実は豊臣秀吉との密談で、光秀は討たれた事にして、
茶道の千利休として豊臣秀吉の知恵袋になったのだ、という…。

つまり龍馬の祖が明智光秀であり、
光秀が実は千利休として生き抜いていたとすれば、
龍馬の祖は茶聖・千利休という事になります。
光秀-利休-龍馬。これを結ぶ、歴史のもうひとつの線があるのかもしれません。

さて、龍馬の最大の師であった勝海舟は、幕末の頃から、江戸幕府が倒れたあと、
旗本をどう食わせるかということを考えていたらしく、
維新後、薩長との戦を生き残った旗本を
静岡県に集めてお茶を作らせたのだそうですね。

そうやって華族になった徳川家の財政を助けたのだそうです。

勝海舟は、早くから幕府の幕引きを考えていたほど、
先見の明がある英雄でありました。
勝海舟は、他の英雄たちのように、戦で骨をさらす事もなく、
長生きして畳の上で大往生しました。

それは気が荒い侍たちが嫌った金の力に対して理解があったからで、
財力の重要性を熟知していたからなのでしょう。

その財力に大いに力を発揮したのが、お茶だったとは。
お茶は文化史・産業史として捉えられる事が多いですが、
こういったところが日本列島の歴史として実は大事なのかもしれませんね。

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