カドカワのレタスクラブ、(通算)800号(2014年5月24日発売号、記念号)のコラムに、丸城茶舗の「天緑」が紹介されました。ありがとうございました。画像をクリックすると、記事の画像が大きくなります。
1998年2月5日・静岡新聞「時の人」に、「お茶を食べる」という主題で国松孝次(元警察庁長官)さんの記事が出ました。テキストを紹介します。
お茶PR貢献で石川知事から感謝状を贈られる前警察庁長官 国松孝次(くにまつたかじ)さん
「感謝状をもらうほど貢献していませんが、このミスヒットは一種のシャレでしょう」と受賞の理由を自ら”検証”する。
「もらったからこれからは粉骨砕身お茶のPRに頑張るなんてことはありまへんな」とおどけてみせるが、実際はだれと話していても「あなた酒が好きでしょ。じゃあお茶を食べなさい」と勧めている。「実は私も剣道仲間の石川知事からそう言って勧められた」と笑う。
もともと日本酒が好きで、中性脂肪値が高く、脂肪肝。お茶を粉にしてスプーンに山盛り一杯、ヨーグルトに混ぜて毎朝食べ始めた。「半年後、三百二・三十だった中性脂肪値が百ぐらいにパタンと落ちた。レントゲンでも白くぼやけていた肝臓がすっきりときれいになった。血糖値も下がった。間違いなく酒飲みの免罪符」。話すほどに熱も入る。
「私があまり言うと薬事法違反になっちゃいますけどね。でも、万一、鉄砲に撃たれても助かるぞ、と言っているんです」。警察庁長官当時、狙撃されて八時間に及ぶ難手術を乗り切ったのは剣道で鍛えた体力と「肝機能を改善させてくれたお茶のおかげ」と言い切る。
昨年三月末で三十六年間の警察の生活に終止符を打った。この一月から自動車安全運転センター理事長に就任。
最近の金融証券事件など不祥事の続発に「官も民もだが、特に官は、志が低い」と危惧する。「自分も反省しているが、今の役人は非常に実務的で、当面をどうするかテクニックにばかり目がいっている。私を離れて天下国家を論ずる、書生論をもっとやっていい」と言う。
故郷の浜松にはときどき帰る。実家に行き、高校時代の仲間に会うのが楽しみ。また「これからはカミさん孝行しないと見捨てられるから絵でも一緒にやりたい」。東京都世田谷区在住。六十歳。
※年齢、役職などは当時のものです。一部の平仮名で書き下された部分を漢字に変更しました。
朝日新聞に掲載された時のちらし。
朝日新聞の「日曜版」への掲載です。向田邦子の「うまいもの」ランキングより。こちらのランキングですが、ランキング方式が公開されておりまして、まず朝日新聞社の編集部が予めリスト・アップしたものから、いわゆる「読者アンケート読者」の方が投票してランキングを行なっています。完全にゼロからの投票ではないのですが、それでも、「朝日新聞の編集者が投票リストに入れてくれた」という事実の方が大きく、嬉しいものでした。「う」の抽斗は、もっと沢山の名店があります。このブログで紹介して頂いております。「う」の抽斗のリストを私も作りました。飛先を見て下さい。
天然生活には二度掲載され、最近掲載された時のちらしと、記事。
天然生活に最初に掲載された時の記事(パソコンの書庫から発掘しました)。
飯島奈美さんのウィキペディア。
飯島奈美さんのAmazon著者ページもあります。
産経新聞、2011年(平成23年)9月22日(木曜日)の22面(静岡版)、「続・静岡文学逍遥・2.向田邦子」に当店の事が掲載されました。こちらはテキストで紹介します。
向田邦子が他界して今年で30年がたつ。「父の詫び状」「阿修羅のごとく」「あ・うん」…。銀幕やブラウン管を通して、日本中で広く愛された向田作品のドラマは、高尚な文学作品よりも、多くの人にはかえって親しみやすかったかもしれない。
向田のお気に入りの「天緑(てんろく)」という茶がある。沼津市で昭和30年代から創業する「丸城茶舗」の特製商品で、向田はこの店の包装紙を「うまいもの」を略した「う」と書かれた抽斗(ひきだし)にしまってあったそうだ。死亡するまでの10年間、注文の電話をかけて取り寄せ続け、文学ファンの「知る人ぞ知る」といった具合の隠れた名品だ。
「もう30年になるんですねえ…」。同店の城内恵子さんは、急に注文がこなくなった30年前を思い出し、感慨深げにつぶやいた。「淡々として、そっけない感じ。でも、売れっ子作家だからって、決して偉ぶらない丁寧さもありました」。向田はいつも受話器の向こうの人だったが、印象は声や話し方でその人柄がしのばれた。
沼津に住む知人からこの店のお茶を贈られたことで、向田の知るところとなった。当時、店で使っていた茶葉を入れる紺絣(こんがすり)の500グラム缶は、今はもう使われていない。
<私が口を利いてあげるから、100グラム缶を500缶、テレビ局に入れてみない?>
売れっ子の放送作家だった向田ならではの大口注文もあった。しかし、店を手伝う長男の達也さん(31)は、「そうすると店の在庫がなくなって、他のお客さんに迷惑がかかるから断ったと父から聞いています。もちろん、売りたかったのだろうけれど」と残念がった。
向田と親交のあった茶の研究家、佐能典代さんは著書「茶と語る」の中で、向田が天緑について次のように語る話も載っている。
<二煎目が好きよ>
天緑は、とりわけ黄色が映える茶だ。茶葉に湯を注ぎ、1分半待って湯飲みに入れた一煎目は、淡い緑がかった黄色が映え、好む人が多い。しかし、中には湯を入れて30秒待った二煎目が好きという”通”もいる。一煎目とはまた違った香ばしい味わいで、色は薄く明るい黄色に変わる。
「私もファンの一人だっただけに、寂しさも感じますね。でも、ファンの方からの電話注文はまだ多いんですよ」と恵子さん。電話が途絶えて30年。しかし、向田が残した「う」は、今も老舗の電話を鳴らしている。
まるじょうちゃほ
沼津市上土町で、昭和31年に創業。現在は2代目店主の城内達雄さんと妻の恵子さん、長男の達也さんの3人で切り盛りしている。向田の愛した「天緑」は、静岡市の中山間地・梅ケ島産の茶葉を使っている。向田邦子
1929~81年(享年51)。東京都生まれ。「寺内貫太郎一家」「眠る盃」などの脚本やエッセーなどを次々に発表。昭和55年には第83回直木賞を受賞したが、翌年、取材旅行中の台湾で航空機事故に遭い死亡した。
記事補足解説
向田さんが当店に天緑を大量に注文された話
<私が口を利いてあげるから、100グラム缶を500缶、テレビ局に入れてみない?>
売れっ子の放送作家だった向田ならではの大口注文もあった。しかし、店を手伝う長男の達也さん(31)は、「そうすると店の在庫がなくなって、他のお客さんに迷惑がかかるから断ったと父から聞いています。もちろん、売りたかったのだろうけれど」と残念がった。
一語一句、向田さんがこのようにその時、話されたわけではありません。この時の経緯については当店の記憶によるもので、確か向田さんが電話で当店に直接、そのように言ったかと思います。飛ぶ鳥を落とす勢いであった向田さんですが、この時も傲慢な印象はなく、またその後も同じように自分のお茶を頼んでいました。袋ではなく缶で、というお話であったのは確かで、しかもこの量ですと50キロほどの天緑となります。追加で当店が問屋に注文すれば無理な量でもなかったように思うので、もしかしたら当時の父(達雄)なりの、何か他の考えがあったようにも思います。「その時、丁度、問屋にも50キロの天緑がなかった」というような事だったような気がします。ですので、返す言葉で老舗よろしく「お言葉ですが…。」という即意当妙の、テレビドラマのようなやり取りがその時の電話であったわけではないようです。お受けできないほどの大量の注文、という点で、当店の記憶に残るものであると思います。
沼津に住む知人
沼津に住む知人からこの店のお茶を贈られたことで、向田の知るところとなった。当時、店で使っていた茶葉を入れる紺絣(こんがすり)の500グラム缶は、今はもう使われていない。
向田と親交のあった茶の研究家、佐能典代さんは著書「茶と語る」の中で、向田が天緑について次のように語る話も載っている。
「沼津に住む知人」は、文章からはわかりづらいですが佐能典代さんの事です。プロフィールには
左能 典代(さの ふみよ、1944年9月20日 – )は、日本の作家で、岩茶房(がんさぼう)主催者。静岡県生まれ。本姓は佐野。立教大学文学部英文科卒。新潮社勤務、ニューヨーク大学でアメリカ文学を学ぶ。世界各地を取材し、79年東欧に関する著書を上梓、83年小説「…(出典:NewsWatch)
とあります。
左能典代さんのAmazon著者ページ。
紺絣とは、このような模様です。
その後、様々な媒体でご紹介を頂いております。ありがとうございます。
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